世界をRe;designする
今回の話題は世界のリ・デザインについてである。
現代社会において、世界は非常に身近な存在になりつつ有る。
これはインターネットの発展による高度な情報化がもたらした恩恵である。
しかし、この高度な情報化は人々の在り方すら変えてしまった。
人々はスマートフォンを持ち歩き、いつでも気にするのは誰かからの連絡である。
インターネットの登場により不正確な情報が蔓延していることも事実である。
もちろん、私も間違った情報を発信することもあるかもしれない。
しかし、間違った情報が悪いわけではない。
現象には必ず理由があり、フェイクニュースや噂、虚偽の情報が生まれるのにはそれ相応の因果関係が有るのである。
問題は私達が受容する情報を「間違っているかどうか」判断しようとする努力をしているかしていないかという点に有るのではないかと私は考える。
この問題点が今回の「世界のリ・デザイン」の重要性に強く関与してくる。
先日、NHKの「100分de名著」の特別番組で、民主主義の基本原則について取り上げられていた。
取り上げられていた民主主義の原則は以下のとおりである。
「民主主義国が健全であり続けるには、市民による投票だけでなく、それ以上のものが必要である。民主主義国は、大勢の市民からの一貫した関心と、時間と関与を必要とする。」(米国大使館-民主主義の原則-市民の義務より,民主主義の原則 – 市民の義務|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN)
よって民主主義に生ける市民は民主主義、ひいては政治への関心を寄せることがなければ民主主義は崩壊しているとされるのである。
現代は政治に関心のない若者が多いといわれる。これ自体は事実である。筆者の周りの友人で政治の話になって盛り上がったことなど指で数えるほどしかない。
先の話にも出た100分de名著の特別番組では、「1984」の紹介の際にはこんな話が出ていた。
かつて、政治と民間人をつなげる役割をしていたのは「サークル」という共通の楽しみをもつ人々が集まる場所であった。
しかし、現代はその役割を専らメディアが代替している。ここに民主主義の崩壊の断片がすでに見えているのだと述べられていた。
これはメディアというものが、「編集者」によるフィルターが通されて伝えられるという性質を持つことが原因であると述べられていた。
メディアは私達が求める情報を発信してくれる便利なものである。
だが裏を返せば私達の求める情報を発信できないメディアは「便利ではない」とされ、排斥されてしまうのである。
メディアは私達が求める情報を提供しようとするあまり、
歪んだ情報提供に走る傾向がある。番組内ではこれがスキャンダルやスポーツ報道であると述べられていた。
つまり、私達が事実を提供してくれると考えていたメディアが実は真実を歪んだ形で私達の元へ届けている可能性が有るのだ。
現代社会は民主主義の体型を取る国が多く存在する。
そして、この体制が絶対で、私達はうまく行っていると、民主主義体制の中に置かれた市民のおおくは信じて疑わない。
私は社会が持つこの考えを「リ・デザイン」すべきであると考える。
私達が情報を精査し、俯瞰的に見ることを実行しなくなってしまう日はそう遠くない未来かもしれない。
そうなる前に、私達が情報に対する受け止め方をもう一度考え直すべきではないかと思う。
面倒でも、複数の情報を取り寄せ、1つの事象に対し様々な考えを見て、考える。
そうして出した結論は、ただ流れてきたネットニュースの記事をそのままに解釈して出した結論よりよほど補強された論理を持つであろう。
いかがだっただろうか。まだ十数年しか生きていない若造のまとまりのない文章、論理を読ませてしまって申し訳ないが、以上が私が考える社会のリ・デザインすべき事案である。
しかし社会にはまだたくさんのリ・デザインを要する事案が存在する。この話はまたの機会に。