震災は起きた。その事を残すために
あの東日本大震災から,来月の3月11日で9年となる。
私が住む宮城県では,常磐線の復旧や閖上地区の朝市の賑わいが復興をわずかに思わせている。
しかし,今年で9年とは早いなぁと思うと同時に,まだ完全な復興は先だなぁと感じるばかりである。
休みの日に車を走らせると,不思議とハンドルは沿岸方向へ。道の両側がまったいらであることはざらで,そこにあったはずの家々はどこかへと消え去っていた。
まだなのか。あの風景が私の目の前に現れるのは。こんな田舎嫌だ,と思っていた景色がなくなってしまってから初めて大切なものだと実感するようになった。
だから私は写真を撮るのかもしれない。
目次
1.私はあの時,何をおもったのか。
大学は夏休みに入り,かねてからやろうと思っていた部屋の掃除に手を付けると,こんな作文が出てきた。
三枚にわたって書かれた作文には私が震災が起こった際に起きたことや思ったことがつづられていた。もちろん,文章の稚拙さに少しおかしさを感じたが,その文章の伝えたいことを真摯に受け止めることができた。
今ある当たり前の生活,たとえば食事ができること,電気が使えること,お風呂に入れることなどが,一気に奪われてしまうのが震災の恐ろしさであることを忘れてはいけないと思えた。
そして,いまこの体験を知らない世代がどんどんと増えていることに対する不安も存在する。いまの小学生に対してどのように地震や災害後の危険や苦しさを伝えればいいのか,ふと考えることがある。
2.準備ができても,人が来ない。
2月17日の朝日新聞の一面に,衝撃的な見出しが書かれていた。「町は整う 人は戻らない」 これは9年目を迎える東日本大震災を特集した記事であった。
何年か前に,震災に遭ったのが東北でよかったという趣旨の発言をして辞職に追い込まれた復興相がいたが,いまはその言葉が良く刺さる時期であると思う。いまや東京などの首都圏のみならず,日本全体にとって田舎という場所に価値があまり見いだされない時代となってしまった。
そんなときに重い腰をあげてまでしかも何年か前に大災害に遭ったとちに家を構えてくれる人は数えるばかりである。
しかし,そんな中でも地域に人を集めるために頑張っている人がいることも,その記事では触れられていた。
これは震災で大きな被害を受けた陸前高田市で復興活動をする清水健太さんについて特集が組まれた記事である。彼は陸前高田で小さな写真館を開き,地元の復興に奮闘している。
彼の支えとなっているのが同市で菓子店を営む菅野秀一郎さんである。彼らはこれからの陸前高田の未来において必要であるのは「高田の人間」であり,陸前高田を思ってくれる人を育てていくことだと語っていた。
私は感銘を受けた。私は今まで人口を増やすだけの「量」に目を向けていたが,彼らが目指すところはやみくもに人が来ないことを嘆くのではなく,ここで育つ人の「質」を上げることにあると見抜いていた。
そして,復興の本質は「前にあった状態に戻す」ことではなく,地元を思う人々が戻ってきて,新たに育てる環境があるということなのだと感じた。
3.自分もいつかは
私は震災後,その被害の様子をつづった作文の最後に「がんばろう日本」と残した。しかし,今の現状を見て,本当に日本全体が震災を思い,復興に対して互いに手助けする思いやりを感じられるだろうか。
10年という区切りが目前に迫った今だからこそ,風化させないように個々の日本人が被災地に対しておもいを寄せ,実際に足を運んでみてはいかがだろうか。
そしていつかは,自分もその惨状を,体験を伝える側になりたいと考えている。
その活動の第一歩が「写真」であると考えている。
写真は私にもなじみが深く,さらに人々の目に訴えるにはもってこいの媒体である。
このような一人の地道な行動が形のない震災遺構を作り上げていくことに少しでも役に立てばいいなぁと感じている。
いつかは,あなたもその担い手となってくれることになれば,それほど嬉しいことはないだろう。